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「サラバ!」西加奈子は「神様」だった。

サラバ! 上

サラバ! 上

サラバ! 下

サラバ! 下



西加奈子という人が存在する今に生まれたことを、私は大袈裟ではなく、心から感謝し、感動している。


小説はナマモノだと思う。
しかし、時間と共に腐敗する食物や、魂がなくなった生物と違い、生きた文章は腐ることなく、いや増して鮮度を保ち続ける。
そんな物語を紡ぐ作家を「神様」と言っても過言ではなく、実際にそうなのだ。
西加奈子は「神様」だった。


あらすじ
主人公の圷歩は、生まれもった美貌と、少し個性の強い家族の影響から、うまく生きる術を自然に身につけた賢い少年。
優しいが、どこか孤独の影を引いた父、憲太郎の仕事の関係で、歩が産声をあげたのはイラン。一旦帰国するが、7歳から10歳の4年間をエジプトで過ごした。素直すぎる母、奈緒子は嘘がつけない真っ直ぐな性格で、歩と4つ歳の離れた姉の貴子は「問題児」であり、その所業は奈緒子を混乱させ、歩に距離をとらせるものだった。
歪だが、家族として歩んできた圷家の崩壊はエジプトで始まった。
歩はそのエジプトで、国籍も肌の色も違う少年ヤコブに出会う。言葉が通じない二人だったが、二人にしか分からない世界が、そこに確かに生まれた。
「サラバ!」それが二人の隔たりをなくす秘密の言葉だった。
父と母の離婚をきっかけに帰国し、日本での新たな生活が始まった。
ヤコブのことを忘れ、青春を謳歌する歩。高校に進学し、大親友ができる。
彼女もでき、そのルックスで歩はとにかくモテた。大学に進学し、更にエスカレートした歩は猿同然であった。
バイトの延長でライターの仕事を始め、クリエイティブな世界に自然に入った歩は、正に順風満帆。美しく優しい彼女、最高の仲間、収入、有名人と気軽に知り合いになれる世界。歩は華やかな世界にどっぷりと浸かりながら、不器用で誰からも愛されず、いい歳になっても一人では生きていけない姉を軽蔑し、嘲笑い、この幸せが姉により潰されてしまうのではないかと慄いていた。
いつまでも、この幸せが続くと思っていた歩にとって、向き合うことを恐れるような体の変化が現れた。減っていく仕事、今までなら絶対に相手にしなかったレベルの彼女…。気付けば歩の周りには華やかなものは何一つ残っていなかった。
そんな折、世界を放浪していた残念な姉が、帰国すると連絡をしてきた。
久しぶりの再会をした姉は、信じられない姿になっていた。




普遍的だからこそ難しく、シンプル。
今作は「家族」「宗教」を大きな柱として構成されている。
どちらも普遍的で 、一つの枠にはまらない大きなテーマでありながら、西加奈子はこの二つのテーマに生きること、信じることを根幹に、痛快な一つの物語として書き上げている。いや、一つではない。「サラバ!」には沢山の人生が幾重にも重なり、そのどれもが歪んでいて、美しくて、優しい。
これを書けるのは今、西加奈子しかいない。最高にカッコ良くてシビれる。この文章がカッコ悪いことは私にも分かるが、その表現が一番ビビッドなのだ。


あれ?西加奈子って私のこと知ってる?
西加奈子の著書は今までも読んできた。毎回衝撃的なのが、どの小説にも私や、私の家族、友人、恋人だった人が出てくること。
「サラバ!」では、歩が私であり貴子が私だった。私のサトラコヲモンサマがいた時代もあったし、矢田のおばちゃんは親戚にいたし、鴻上は私の親友だったし、時に私は澄江になり、ヤコブにもなった。
つまり、皆生きていて、皆似たり寄ったりで、皆素晴らしいのだった。
ということは、私も素晴らしいのだった。生きているというだけで。
いつもそう感じさせてくれる、生きた文章が西加奈子の作品には溢れている。


宗教という大義
宗教。と一括りに言うと、我々、島国日本人は何故か尻すぼみする。この国には、宗教と呼ばれるものがうん万とあるが、自分の宗派を堂々と答え、その教義を説明できる人は一握りもいないかもしれない。多分に漏れず私もその一人だが、海外では信じられないことらしい。
幸せの国ブータン王国では、自分が信奉する信仰を書かなければ、入国できないと昔テレビで観たことがある。
アメリカに留学した友人は、血液型を聞かれるのと同じように「あなたの宗教はなに?」と聞かれて、分からず答えられないでいると、変な顔をされて苦い経験をしたと言っていたし(逆にアメリカで血液型を聞くことの方が珍しいらしい)、宗教は私たち日本人が持つイメージと違って、海外では、いわゆる哲学を持つというカテゴリなのだ。
だから持っていない、分からない、或いは沢山の神様仏様を信じていることは、彼らからすると考えられない!といった感じだという。
ヤコブが堂々とコプト教を信仰していると言ったことに対して、歩は自分の家族が(自分でなく家族を含めているところが日本文化そのものを表現している)何を信仰しているかすら分からないところも、宗教に対する考え方の違いを感じるシーンだ。
「サラバ!」には、「信じる」というワードが下巻で何度も出てくる。
信じるって何ぞや?だが、西加奈子はこの作品の中で、信じる宗教を持ちなさいとか、そんなことを言いたい訳じゃないし、強要もしていない。
「サラバ!」は決して、勧誘小説ではない。


信じるということ
歩は、何かを信じるとか、揺るぎない何かを軸にするということから背を向けてきた。マイノリティを避け、それに拘る人たちを蔑むことで自分を守っていた。自分は悪くない!悪いのは周りだ!と、決めて軸となるものを自分以外の誰かにずっと委ねながら生きてきたのだ(歩は歩なりに生きる術を身につけていた訳だが)。そうすることで自分を守ってきた歩は、自分自身の変化により環境が変わることを受け入れられず、どんどん孤独になっていく。
そこへきて忌み嫌っていた姉の貴子に、
「あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが信じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。」
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ。」
と、強烈な言葉を言われ、また悩み苦しむ。
しかし、この貴子の言葉に、この小説の全てが詰まっている。それは貴子が歩を愛するからこその言葉であり、この物語の真理なのだ。
要するに、宗教でも何でもいい。信じられる何かは自分の中にある。自分という個が、何よりも掛けがえない存在で、最高の産物で、自分という身体を使って物語を紡げるなんて、もう自分って神様と一緒やん!ということなのだ。
宗教とは、自分の中のリミッターを外す一つの手段であり、自分を最大限に輝かせるための哲学を教えてくれる方法でもある。だから祈る対象は何でもいい。そこに自分自身を信じ切るという決意があれば、人は変われるということを西加奈子は「サラバ!」という3文字と感嘆符に込めて私たちに最高のプレゼントとして届けてくれた。



「サラバ!」を語る上で外せない、ニーナ・シモンのfeeling good.

新しい世界が始まる
最高の気分よ






この本に、このタイミングで出会えたことを心から感謝している。西加奈子万歳!